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ラブひめ3:えひめ丸の真面目な話
 
BBSにて文章中の誤りを御指摘いただき、
2005年12月12日・訂正及び一部に加筆修正しました。
 
 
歌姫です。
 
2001年2月9日(或いは10日)。悲しい事故が起きました。
アメリカの原子力潜水艦グリーンビルの衝突事故により、
愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸が沈没し、9人の犠牲者が出ました。
 
同年1月10日に神奈川県三浦市から出港したえひめ丸。
この乗組員達が1ヶ月後には海底に沈むなどと、誰も予想しえませんでした。
 
実習生の野本勝也君・松下業君は親友で、船内では同室で生活していましたが、
二人が揃って生き残ることにはなりませんでした。
 
 
 
事故発生。原因はグリーンビル側の海上確認不十分。
衝突時に生じた幅[80 cm × 20 m]の傷から船内に海水が流入し、
2分40秒で船体は600 mの海底に向かって沈んでいきました。
 
 
───野本君の他、全9人が行方不明になりました。
 
 
野本君は事故の数時間前に両親に電話を入れていたとの事。
彼の両親は、事故後すぐにハワイへ。
しかし手がかりを得ることもできず帰国し、ただ引き上げを待つ日々を送りました。
その間も、ずっと彼の分もご飯を作って待っていました。
 
3人兄妹の末っ子で、エンジニアを目指していた野本君。
事故から3ヶ月後、彼の死亡届が提出されました。
(海難事故では行方不明から3ヶ月経過しないと提出できません)
 
御両親は我が子の死を受け入れることに悩みつつも、墓石を用意しました。
しかし名前を彫るのは、引き上げを待つことにしました。
 
 
一方、生き残った松下君はPTSD(心的外傷後ストレス障害)になりました。
事故のショックと自分だけが生き残ったことに対する罪悪感を、
深く感じているそうです。睡眠は1日に1〜2時間程度。
睡眠薬を飲んでも熟睡することはできず生活は不規則になり、過食と拒食を繰り返していました。
大型船舶の機関士になるという夢を失い、海にも近づけず、引きこもりがちの生活が続きます。
 
 
 
7月。
 
松下君は事故以来初めて4時間熟睡することができました。
ひとりで海釣りに行くこともできるようになりました。
アルバムから野本君の写真を見つけ、それを野本君のご両親に渡したそうです。
 
 
 
8月。
 
えひめ丸の船体引き上げは難航していました。
船体の下部にワイヤーを通して運ぼうとしたものの上手くいかず、
アメリカ海軍は船体前部の錨の穴にワイヤーを通して運ぶことになりました。
船体の吊り上げ方法の変更についてアメリカ海軍からは、
 
「思っていたよりも、船体が頑丈であることが確認されたため」
 
という、ふざけたコメントが発表されました。
その頑丈な船を3分足らずで沈めたのが誰なのか、自覚はないようです。
 
 
そして、米原潜グリーンビルがサイパン島で座礁。
 
 
 
9月。
 
NY貿易センタービルに飛行機が激突。
アメリカの最大の関心事は自国の自衛になりその影響で一時作業が遅れましたが、
報道機関がテロ問題を最優先させたため
日本に情報が流れることはほとんどありませんでした。
 
 
 
10月。
 
えひめ丸船体がようやく30 mの浅瀬まで運ばれて船内捜索が始まり、
次々と行方不明者が発見される中、捜索3日目に野本君が確認されました。
電話で連絡を受けた野本さんの父親は相手に一言、
 
「迷惑かけました」。
 
 
 
12月。
 
犠牲者9人の葬儀が終わりました。
最後の葬儀は、唯一発見される事のなかった実習生水口峻志君のものでした。
彼の葬儀には300人が参列しました。
船内から水口君のデジタルカメラが発見され、
そのメモリースティックから(製造元の協力により)
乗組員の元気な姿を写していた写真が復元されました。
 
 
 
2002年1月。
 
えひめ丸慰霊式が営まれ、救助された生徒達も献花を行いました。
ハワード・ベーカー日米大使は遺族らを前に語りました。
 
「米国は恐ろしい事故の全責任を負い、
 同様の事故を繰り返さない方策をとっている」
 
 
この月、宇和島水産高校の生徒17人は香川県立多度津水産高校の実習船香川丸に乗り、
同県多度津港からハワイ沖での実習公開へ出発しました。
 
 
またしても米原潜グリーンビルがオマーン沖のアラビア海で、
米海軍の水陸両用艇と衝突する事故を起こしました。
 
 
 
2002年2月。
 
米原潜グリーンビル側がパッシブソナー(水中音波探知装置)で認識していたえひめ丸の航跡が
実際の動きとは大きく食い違っていた事が、えひめ丸被害者弁護団の調査で判明。
 
パッシブソナーは、船のスクリュー音やエンジン音を聞くことで船の位置を割り出しますが、
距離や進行方向を正確に捉えることは難しいため
潜望鏡による海上確認が非常に重要であったことが再認識されました。
 
弁護団は補償交渉の場でこのことについて米海軍に説明を求めましたが、
「査問会議にて検討済みで、新たな説明は不要」と回答を拒否。
 
 
 
9人の犠牲者を悼む慰霊碑が、宇和島水産高校に建立されます。
愛媛県がハワイに建立する慰霊碑と同様にえひめ丸から回収された錨を使い、
2月22日に除幕され、9人の魂を示す9本の柱が立てられるそうです。
 
 
 
───ただし
 
この事故の犠牲者は、9人だけではなく、
9人の家族や友人等多くの人々達もそうであることを忘れてはいけないと思います。
彼らの長い長い航海は、これからも終わらないのですから。

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